AIの限界を松本人志のボケから考える – Arkanos Insights

AIは冗談や突飛な言葉を生成できます。しかし、意味不明な出力を訂正すべきエラーではなく、育てるべきボケとして選ぶことはできるのでしょうか。松本人志氏の理不尽なボケを手がかりに、生成AIの限界を考えます。

生成AIは、冗談を言うことができます。

「○○を題材に、大喜利の回答を考えてください」と頼めば、短時間でいくつもの案を返します。言葉遊びもできますし、漫才やコントらしい台本を書くこともできます。以前と比べれば、その質もかなり上がっています。

では、AIは一流のコメディアンと同じようにボケることができるのでしょうか。

この疑問について考えていたとき、なぜか思い出したのが、松本人志氏が『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』で披露した「ロシアの遊び」という話でした。

「ボルシチ」と「ピロシキ」

その話では、松本氏の提案で架空の「ロシアの遊び」を始めます。じゃんけんによって、松本氏が「ボルシチ」、浜田雅功氏が「ピロシキ」になります。

松本氏は、タッチされると「ボルシチのピロシキ」になり、タッチした側は「ピロシキのボルシチ」になるという、形式だけはルールらしいものの、意味はほとんど理解できない説明をします。

細かなやり取りは割愛しますが、ゲームが始まって浜田氏が松本氏へ軽くタッチすると、松本氏は激しい苦痛を受けたように腕を押さえ、床に倒れて悶絶します。浜田氏は最初こそ心配して謝りますが、いつまでも痛がり続ける松本氏に次第に苛立ち、最後は蹴って終わらせます。

このネタの本質は、「ボルシチ」「ピロシキ」という意味不明な言葉の組み合わせだけにはありません。

  • もっともらしく始まる、意味不明なルール説明
  • 理解できないまま、とりあえず付き合う浜田氏
  • 軽いタッチと、松本氏の過剰な苦悶との落差
  • 本気の心配から苛立ちへ変わる浜田氏の反応
  • 最後は蹴りによって強制終了される、二人の関係性

言葉、身体動作、演技、相手の反応、長年の関係性が連続することで、ネタ全体が成立しています。

言葉だけを取り出せば、何が面白いのかを説明しきれません。架空のルールを当然のように語る松本氏と、それを理解できないまま受け入れ、心配し、最後には苛立って終わらせる浜田氏。その一連のやり取りまで含めて、一つのボケになっています。

理不尽とランダムは違う

AIに「意味不明なことを言ってください」と頼めば、突飛な言葉はいくらでも生成できます。

しかし、単に無関係な単語を並べても、面白くなるとは限りません。理不尽なボケとランダムな出力は、似ているようで異なります。

この理不尽なボケには、少なくとも次のような流れがあります。

  1. 誰も知らない前提やルールを突然提示する
  2. 本人だけは、それを当然のものとして扱う
  3. 相手が理解できないままでも、実演へ移る
  4. 軽いタッチを、なぜか激しい苦痛として演じる
  5. 相手の心配や苛立ちまで取り込み、掛け合いとして完結させる

重要なのは、最初の設定が突飛であることだけではありません。その設定を捨てず、確信を持って押し通し、言葉だけだった架空の遊びを身体的な演技と二人の掛け合いへ発展させることです。

AIも「架空のロシアの遊びを作ってください」と指示されれば、それらしい設定を考えられます。ただし、その時点で人間がすでに「架空の遊びを作る」という目的を与えています。

何も求められていない場面で唐突な設定を生み、その場の反応を見ながら「これは育てる価値がある」と判断することとは、少し違います。

同じ言葉でも、誰が言うかで変わる

もちろん、「お前はピロシキ、俺はボルシチ」という言葉だけに、面白さのすべてが含まれているわけではありません。

松本氏の話し方や表情、発言の間、浜田氏との関係性、『ガキの使い』という番組で積み重ねられた文脈があります。視聴者も、松本氏が意味不明なことを言い始めたときに、「この先に何かあるはずだ」と少し待ってくれます。

同じルールを別の人が説明し、同じように床へ倒れても、同じように面白いとは限りません。場合によっては、ただ意味の分からない寸劇として終わります。

これはAIと人間を比較するうえで、差し引いて考える必要があります。AIに一文だけを生成させ、それを長年の人格や関係性を持つ芸人の実演と比較するのは公平ではありません。

一方で、この比較の難しさそのものが、笑いの性質を示しています。

同じ意味不明な発言でも、芸人ならボケになり、AIならエラーとして受け取られる。その違いは出力された文字列だけではなく、誰が、どの場で、どのような役割として発したかにあります。

AIはエラーをボケに変えられるか

AIが通常の会話で意味不明な回答をすると、多くの場合、それは誤りとして扱われます。利用者に指摘されれば、AIは謝罪し、訂正し、正確な回答へ戻ろうとします。

それは、実用的なAIとして正しい動作です。

しかし、コメディアンは逆の判断をすることがあります。意味不明な発言を撤回するのではなく、その発言を新しい前提として採用し、さらに設定を加えることで笑いへ変えていきます。

ここで必要なのは、突飛な出力を作る能力だけではありません。

目の前に生まれた違和感が、訂正すべき失敗なのか、それとも残して育てるべき面白さなのかを判断する能力です。

AIに「あなたはコメディアンです」と役割を与えれば、訂正せずにボケを続けることはできます。しかし、それは「ボケを続ける」という目的を、人間からあらかじめ与えられた結果です。

優れたコメディアンは、最初から用意されたネタだけで笑いを作るわけではありません。日常の会話や予定された進行の中で、偶然生まれた言い間違い、相手の反応、場の違和感を拾い上げ、その瞬間に笑いの材料へ変えることがあります。

そこでは、「会話を予定どおり進める」から「この逸脱を育てる」へ、目的そのものが切り替わっています。

AIも、指示されればエラーを分析し、ボケとして再構成できます。難しいのは、通常の会話の中で生じた逸脱について、誰にも求められていない段階で「これは訂正するより、残したほうが面白い」と判断し、自ら目的を切り替えることです。

突飛なものを作ることより、それを選ぶこと

ここまで、意味不明な発言をボケに変える場面を考えてきました。しかし、「想定外の出力を、失敗として捨てるか、新しい価値として残すか」という問題は、笑いに限りません。

生成AIは、大量の案を作ることが得意です。条件を緩めれば、一般的ではない案や、意外な組み合わせも生成できます。その中には、ときどき人間が意図して作ろうとしても作れないような、妙に魅力的なものが混ざります。

画像生成でも、指示とは少し違う構図や、偶然生まれた形、意図しない色の組み合わせが、かえって作品の魅力になることがあります。人間はそれを見て、「指定とは違うが、こちらを起点にしたほうが面白い」と判断できます。

一方、指示との一致や一般的な完成度だけを基準にすれば、その出力は失敗として捨てられるかもしれません。

AIも、評価基準を与えられれば複数の案を比較できます。しかし、目の前の出力を見て、当初の基準そのものを変更し、「今回は指示どおりでないことに価値がある」と判断できるかは別の問題です。

AIの限界は、突飛なものを生成できないことではないのかもしれません。難しいのは、自ら生み出した突飛なものについて、それをノイズとして捨てるのか、価値ある逸脱として選び、育てるのかを判断することです。

AIの限界は、この辺にあるのかもしれない

AIは冗談を作れます。意味不明な設定も作れます。相手の反応を入力として受け取り、設定を追加することもできます。

それでも、そこには問いが残ります。

AIは、唐突に生まれた出力の中から、「なぜか分からないけれど、これは面白い」と感じるものを選べるのでしょうか。

そして、それを誤りとして修正せず、価値のあるものになる可能性に賭けられるのでしょうか。

AIは、突飛なものを生成できないわけではありません。

その突飛さを、訂正すべきエラーではなく、育てるべき価値として選べるか。生成AIの限界は、作る能力よりも、この判断の部分にあるのかもしれません。

少なくとも今のところ、ボルシチとピロシキは、人間から出ないと難しそうです。